プロフィール

「赤が更新分です。」

私のプロフィールを作るにあたって、先代の生きざまと合わせて自分の生きざまと言うか、平和な日本でぬくぬくと生きてる自分を改めて振り返るページです。

終わりなきプロフィールを書き続けます。

取りあえずザックリ作りましたが、父の凄さが改めて分かります。

それから比べると、私なんかは小っちゃいな〜〜〜〜。。


父は彫刻家で結構裕福に暮らしていたそうですが、時代と共になかなか芸術では食っていけず、福岡大学の美術講師を断ったのを母はひどく悔やんでいました。

父は芸術の道にいちずで、晩年に脳血栓を患い右手のマヒに苦しみ、数点抽象の作を作りましたが、やはり写実を目指したいとリハビリに励んで右手に木槌左手にノミを打つまで回復しました。

そんな有る時、自転車でフラフラと福岡県みやま市に有る清水寺の住職の元に行き、「建物の修復のお手伝いをしたい」と 言うと、住職から思わぬ依頼を受けてしまった。

住職曰く「実は、国宝の三重塔の中にお釈迦様が座って無いので、彫って欲しい」と、突然頼まれて、父もびっくりして帰って来て、さてどうしようかと色々考えて、改めて清水寺に行って、
三重の当の中を見せてもらい、色々とサイズを量ってみると、かなり大きな木を調達しないと三重の塔に申し訳ないと、数日思案してる時フッと船小屋の材木店で見かけた大きな楠木が有るのを思い出し、
買う勢いで、丸太を3m位分けてほしいと言うと、「そういう事なら、あんたの好きな分だけ持って行って良い」と無償で寄付して頂いたそうです。

父は帰ってあらかたの図面を書いて必要な分の樹齢1000年の綺麗な丸太を必要最小限分けてもらいました。

-----まだ続きます-----

 

 

日展にも目もくれず写実派を晩年まで貫きました。
私の会社は 母が家計が苦しいと始めた会社です。

父の作品 
母が設立した会社 

【学歴と遊び歴】 
時系列が記憶が乏しくてちょっとバラバラですが書いてる内に記憶が蘇ってるので、チョコチョコ修正してます。(笑)

福岡県大川市に1957年4月生まれて彫刻家の男四人兄弟の三男として誕生

大川市のしらさぎ幼稚園卒園

大川宮前小学校から4年生の時に大川小学校に転校

大川中学校の3年二学期に福岡県三潴郡大木町の大木中学校に転校し卒業

柳川市の伝習館卒業

卒業後、家業入社

22歳ごろ  中学の友達に誘われて卓球を母校の大木中学校の卓球室を借りて始めました。
        その友とキャンプとか登山も楽しんでました。

23歳ごろ  仕事は工場作業と営業をやってましたが、両立が難しく営業で九州の家具屋さんをくまなく回ってました。
       その頃に体を鍛えたいなーーと思い、福岡県久留米市のスポーツジムで水泳や筋トレ等やってました。

       仕事で営業を車であちこち移動するのにラジオやテープ聞くのも飽きてきたころ、兄がアマチュア無線の免許を取りに行こうと誘われて
       4級免許取ってハンディー機で車で走りながら更新している内に、家からも更新したいと思ったが最後、
       当時居候の身でありながら実家のビルの屋上にビックアンテナを立て、最初は比較的近場の周波数で楽しんでましたが、
       海外交信も面白そうだなーーと海外交信にはまってしまった

25歳ごろ  そうこうしている内に、始めたきっかけがチョット記憶が定かではないですが、ウインドサーフィン始めました。       
        当時は、日本では販売店も数少なくやってる人もほとんどいなかったのですが、たまたま久留米市のバイク屋さんが
        ウインドサーフィンジャパンの代理店をしてる事が解って、当時20万ぐらいしたのを何も考えずに買いに行って、現物見てでかくて
       若い頃の話で持って帰るのにキャリーがいるのも知らずキャリー買う金無くて持って帰るのに仕方なく、
       車(カローラリフトバック)の上に窓からヒモかけて持って帰った記憶が有ります。

       ウインドサーフィンは福岡北部のゲレンデを中心に休みの度に行ってましたが、有る時私の同級生もやってる事が解り一緒に
        ウインドサーフィンやスポーツクラブでテニスを楽しんでました。

35歳ごろ 25歳ごろ土地は買っていたので結婚して家を建てると同時に150坪の土地に無線用のアースとかいろんな投資をしてタワー2本立てで海外交信してました。

 

テニスの話・キャンプの話・ゴルフの話・ラジヒコの話まだまだ続く・・・